同族企業の経営者家族から知る
資産としての「心の豊かさ」
目次
Part 1 「豊かな心」は失われたのか
Part 1 「豊かな心」は失われたのか
強欲資本主義と羨望資本主義
このところの世の中の「すさみ方」は、目に余るものがあります。
政治と経済の混迷は言うまでもなく、口に出すのも憚られるような出来事が次々と起こっています。
おそらく、この「すさみ」が特に目に付くようになったのは、ライブドアによるニッポン放送株の買収が世間を騒がしていた頃ではないかと思います。「おカネがあれば愛情さえ買える」と恥ずかしげもなく言ってのける人物の言動がマスコミを賑わせ、若い世代を中心に一定の支持さえ得ていました。
同じ頃、海の向こうでは返済能力に疑問符の付く人たちに無理やり住宅ローンを貸し付け、これを証券化することで貸し倒れリスクは他人に付回すという金融手法が全盛期を迎えていました。いわゆるサブプライムローンです。
この時代を振り返って「強欲資本主義」と呼ぶ人もいます。確かに、時代の寵児のように持て囃されていた人たちは強欲に憑かれているように見えました。
さらに、当時から彼らを羨望の眼差しで見ている人々が存在していました。欧米投資銀行の億単位の給与は言うに及ばす、大手テレビ局の一見華やかな職場と千万単位の給与も嫉妬と羨望の対象となりました。エリートたちの間で強欲資本主義がはびこっていたその陰で、庶民には「羨望資本主義」とでも言うべきものが着実に根を下ろしていたのです。
世の中でいちばん醜いこと
福沢諭吉作とされる心訓七則には、「世の中でいちばん醜いことは他人の生活を羨むこと」である、とあります。今ひしひしと感じられる時代のすさみは、「いちばん醜いこと」が社会に広まってしまった結果なのかも知れません。
その意味で、強欲資本主義の罪は、サブプライム後の世界同時不況(恐慌)を引き起こしたことに止まらないでしょう。しかし、忘れてはならないことは、その「強欲資本主義者」自身が、他人の富を羨んでやむことのない「羨望資本主義者」でもあったという事実です。エリートであり、世間の耳目を集めるに十分な富を得ていた彼らがなお他人を羨んでいたことで、羨望が強欲を生み、強欲が羨望を生むという不幸な循環が生じたのだと思います。
「失われた10年」で失われたもの
思えば、1990年代初頭のバブル崩壊から、世の中はずいぶん変わりました。「失われた10年」の中で失われたのは経済的な機会だけではありません。日本人の誇りもいくばくか失われました。けれども、失われた最も大切なものは、おそらく「心の豊かさ」ではなかったでしょうか。
何故なら、もしも心が豊かで満ち足りていたとすれば、他人が富をひけらかしたところでさほど羨ましいとは思わないはずからです。
そして「心の豊かさ」の根底には、「ファミリー」という考え方があると思います。バブル崩壊以後の日本で、ファミリーの存在感は急速に希薄になっているのではないでしょうか。
若い人たちが結婚しない、子供をつくらないというだけではありません。企業が一つの家族であるという考え方も、次第に実感が伴わないものになりつつあります。
言うまでもなく、家族の愛情はお金では買えません。そのようなお金では決して買えないものに支えられていると思うからこそ、他人の富を羨まない「心の豊かさ」が生まれるのではないでしょうか。
これに対して、「愛情さえもおカネで買える」という発言には、底が抜けてしまったような「心の貧しさ」を感じます。あたかも金銭に向けられた強欲に果てしがないように、貧しい心が満たされることも決してないのでしょう。そして満たされない心には「他人を思いやるゆとり」などあるはずもありません。このような人が指導者として人の上に立ち、人々から仰ぎ見られるような社会であるなら、やがて「自分のことしか考えられない人々」が増え、すさんで行くことに何の不思議もないと思われます。
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